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自分のこと、人間のこと、人生のこと。ときどき立ち止まっては書き込んでいきます。
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自分を変えるには時間がかかる
長らく無職を続けていましたが、今月頭、形だけではありますがようやく個人事業主となりました。
詳しくは別ブログ『cielo』「個人事業主になりました」をどうぞ。

会社を辞めたのが昨年の4月なので、無職の期間、実に八ヶ月。
再スタートまでにこんなに時間がかかるとは思いませんでした。

この間、自分の「できなさ加減」に非常に苦しめられました。
退職直後三ヶ月、ストレスによる体調不良を引き摺って体が思い通りに動かない。
職業訓練に通っていた三ヶ月、日常生活と訓練校に追われて開業の準備に手が回らない。
訓練終了後の二ヶ月、開業に向けての頑張りどころなのに作業が遅々として進まない。

このブログでも「できない」の取り扱いについては何度か記事を書いています。
がんばれないときは黙って待つ
できないことはそっとしておく
そのくらい、常に意識が「できない」にフォーカスされている日々を送ってきました。

確かに自分はもともとがマイペースだし、何事もじっくりゆっくりやるタイプだけど、それにしたってこの体たらくは酷い。
人生のひとつひとつ、生活のひとつひとつを自分の頭で考え決めて、今はもう、大学時代や会社員時代とは比べものにならないほど良い環境に身を置いている。
それなのに何故か思うようにできない。動けない。苦しい。
そんな風にいつも焦りに苛まれていました。

でも、あるときふと腑に落ちました。
思うようにできない自分が悪いとか、そういうことではないんだなと。
最初から見積もりが間違っていたのです。

崩した体調が元に戻るまでにかかる時間。
新生活をスタートさせ、身辺を一通り整えるのにかかる時間。
開業の準備にかかる時間。
退職してから新しい仕事を始めるまでにかかる時間。

こういうことを「本気を出せばすぐできる」と思っていたのが間違いだったのです。

本気を出してもすぐになんかできない。
安易に変われる、変えられると思ってはいけない。
「これさえやれば劇的に変わる!」なんて、そんな自己啓発本の帯の売り文句みたいなことを期待してはいけない。
低迷していた大学時代と会社員時代、そこだけを考えても丸六年。
六年間もかけてできあがってきた自分という人間を、たかだか一、二ヶ月で綺麗さっぱり理想通りに変えられる訳がない。

長い時間をかけて作り上げられてきた自分を変えるには、同じように長い時間がかかる。
そのことに、私も長い時間をかけて気付くことができました。

「どうして思い通りにいかないんだ」と焦る人。
「自分はダメ人間だ」と責めるひと。
「自分なんてどうせ」と卑屈になる人。
私のように焦っていませんか。
見積もりを間違えていませんか。
もっと時間をかけてみませんか。

時間がかかるということは、それだけ長く苦しむということ。
それは考えるだけでも辛いことです。
でも、最初から時間がかかると思ってかかれば、焦りや自責という大きな苦しみを避けることができます。

私の気づきが他の誰かのお役に立てたなら、とても嬉しく思います。
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年末年始 山形蔵王温泉スキー旅行
家族と毎年恒例、大晦日から三が日までのスキー旅行に行ってきました。
今年の行き先は山形蔵王温泉スキー場
初めてのゲレンデにわくわくでした!

写真盛りだくさんでお届けします。



今回泊まった宿はスターライトホテル樹氷の家
温泉街の宿は通常の二倍三倍にも値段が跳ね上がり、それなのにどこも満室という状況の中、ゲレンデの中に佇むこのお宿だけはお部屋が空いていました。
本当に助かりました~。

この雪上車でロープウェイとホテルの間を送迎してくれます。



それでは早速ゲレンデに出発!



…ってなんじゃこりゃー!
立ちこめる濃霧で何も見えません。
風も強く凄まじい寒さです。



これが滞在中比較的コンディションの良かった三日目の様子なのですが(ホテルから山頂方面を見上げています)、ご覧の通り山頂付近はすっかり霧に覆われています。



一方、麓まで降りると大抵視界が開けています。
高低差で天気が違うのはどの山もそうですが、山形蔵王は殊に顕著ですね。



ただ、この滅多に晴れない霧のおかげで、山形蔵王では独特の景観を楽しむことができます。
それがこの霧氷。ホテルの目の前で撮ったものです。
雪が積もっているのではなく、霧の水分が凍って木の枝を覆っています。
木の枝だけでなく、建物やらリフトやら、ウエアーや髪の毛にまであらゆる物にくっつきます。



こんな綺麗な霧氷のトンネルもあります。
そしてこの霧氷が標高の高いところですくすく育つと…



山形蔵王の代名詞、樹氷になります。
うわあああ怖い気持ち悪い!
これが更に標高が上がって山頂まで行くと…



最 終 形 態

いやあああーーー!!!

ここに来る前は樹氷って「すごーい、きれーい」っていうものだと思っていたのですが、実際に対面したとき口から出たのはガチ悲鳴でした。
ゲレンデの周りに巨大なモンスターがひしめいて、オオオオォォとか言いながら襲いかかってきそうな悪夢の光景です。
晴れているときに見るとまた全然違って見えそうなので、ぜひとも再チャレンジしたいです。



ハッ、そういえば全然スキーの感想を言ってなかった…。
スキー場自体が広大で、雪質も申し分なく、人も少ない(広いので散らばる)ため快適に滑ることができました!
特に上の写真、中央ゲレンデというところですが、ここが素晴らしく気持ちの良いコースでした。

一方で、残念ながら悪いところも目立ちました。
中でも一番はコース設計の悪さ。
斜度のない平らな道を延々歩かされる箇所がかなりの頻度で出てきます。
地図には書いていないため、これを事前に回避するすべはなく、行ってみて確かめて、それを踏まえて次回のコース取りを考えて…という実に怠い作業をしなければなりません。



あーもー歩きたくないよ-!
ぼーん!笑



さて、ここからはグルメレポートです!
山形蔵王はグルメが素晴らしく、各所で舌鼓でした。
名物の玉こん、ホットココア、レアチーズケーキに…



石焼きビビンバ!
極寒のスキー場に韓国料理はありがたいです。

他にもトルコケバブやもちもちポテトなど、家族が食べて美味しいと言っていました。
(私はこの日は熱を出して滑らなかったので食べられませんでした…!)



そんな中でもイチオシのお店がここ!
デァ・ヴェルテというプチホテル&レストランです。
ヨーデルの声に導かれるようにして入店しました。





スキー場の中にあるとは思えないお洒落な店内。
ウエアーとスキーブーツでどかどか入っていくのに違和感を覚えるほど。



窓からの景色も素敵。



いただいたレモンケーキと紅茶のセット。
酸味がしっかりと効いて、口当たりもさっぱりと軽やか。絶品でした。
まるで街中の喫茶店にいるみたい。

皆さまも山形蔵王に行くときは、ぜひ立ち寄ってみてください!

以上、年末年始の山形蔵王温泉スキー旅行レポートでした。
笑顔の裏の厳しさを超えて
幸福度が低い国、日本。
生きづらい国、日本。
足を引っ張り合う国、日本。

新生活とか体調とか仕事とか宗教とか、生きるって大変だなと思う要因は多々ありますが、その中でも特に漠然として独り相撲になりがちなのがこれ。
日本社会の息苦しさです。

もうかれこれ十年ほど苦しんでいるのかな。
思春期らへん、世の中が見えてくるようになった辺りからずーっと。
多分、誰しも肌で感じているんだろうなと思うのですが。

思っていることを言わない。
本音と建前の落差が激しい。
我慢を美徳とする価値観が根強い。
飛び抜けたことをすると叩かれる。
上手くいっている人がいると足を引っ張る。
陰口や愚痴や他人の噂が多い。
ニコニコしながら心の中で呪詛を吐く。
空気を読めと無言の圧力で強制する。
察することを要求する。

裏を返せば美徳だ、ともしばしば言われますが、個人的にはマイナスにはたらいているケースの方が圧倒的に多いと感じています。
現に我々は幸福度が低く生きづらい国を形成してしまっている訳で、日本人特有の性質だって使い方を間違えれば美徳でもなんでもないよ、というのが率直な意見です。

よく「日本人は寛容だ」と言われたりしますが、私はまったくもって逆だと思っています。
日本人は厳しいです。特に他人に対して。
しかも本人に直接厳しくするのではなく、遠回しだったり、建前では肯定して見せたり、言葉にせず心の中でだけ思ったり、社会全体で価値観を共有して“空気”で押しつぶす、そんな風な形で。
言ってしまえば卑怯な厳しさです。

足を引っ張られるとか、出る杭は打たれるとか、そういう厳しさもありますね。
「みんな辛いんだからお前も付き合えよ」とか。
「おいおい、空気読めよ?みんなこうしてるだろ?」とか。
そういう謎の圧力を怖れた結果、一人一人から個性や生気が失われていったり。
特にこれは社会に出てから嫌というほど、日々ひしひしと感じていました。

あとは「~べき」とか「~して当然」というような厳しさですね。
画一化された理想像が強すぎて、そこから少しでもはみ出していると「えっ…」と突き刺すような視線を向けられたり。
「女なんだから」「男なんだから」「社会人なんだから」「○○歳なんだから」などなど。

手っ取り早く言うと、素直さが足りない。
笑顔の裏に厳しさを隠し持つ二面性。
そんなような感じでしょうか。

一気に捲し立ててしまいましたが、もちろんこれらすべてが特大のブーメランであることは承知の上です。
国中を包み込んでいてあまりにも強大な価値観なので、やむなく屈していた時期もありましたし、今だって気付かずに染まっている部分もあると思います。

それでも私は、どーーーーーーーーしてもこの価値観に喧嘩を売りたいんですね。
おかしいものはおかしい。
おかしいと思うものに従うことはできない。
そんな思いで、不毛な独り相撲を何年も続けていたりします。

ただこれ、単に言葉にして叫ぶだけではそれこそ愚痴と変わらなかったりするんですよね。
だから本気でおかしい、変えたいと思うなら、一番の方法は自分で体現することなのかなと。
しかもそれを他人に向けてやろうとするんじゃなく、まずは自分自身に向けてやってみる、それが大事なのかなと、そんな風に思っています。

思っていることと逆のことを言わない。
思っていることはちゃんと言葉で伝える。
辛いと思うことをやり続けない。
ぽっと出てきたポジティブな芽を「どうせ」と言って潰さない。
理想的な自分であろうとしない。
格好悪い自分、不出来な自分、情けない自分を全部外に出す。
より楽になる方向、より生きやすい方向へ進む。
人に期待しない。
自分にも期待しない。

というのも、自分と他人は別々ではなく、自分も他人のうちだと思うのです。
そして、唯一自分の手で変えられる他人は自分だけ、とも。

このブログでも、生き方を変えてみたり宗教の悩みを暴露してみたり、まあ何とも恥ずかしい個人的なことをあれこれ書いているわけですが、これも体現のうちのひとつだったりするんですね。
生きづらさをまずは自分から打破してやろうと。
結局まだしばらくは独り相撲かなぁ~などと思ったりもしますが、ネガティブと闘う相撲からポジティブに向かおうとする相撲になったわけだし、忘れた頃に何か変化があるかもしれませんね。

もうすぐ2014年も終わり。
来年も今のまま、格好悪く、下手くそに、恥をさらしながら、それでも真っ直ぐに、一生懸命、この生きづらく厳しい日本で、まずは自分から変わっていきたいなぁと思っています。
宗教について何年も悩んできたことを思いきって書いてみる
宗教。
この言葉に、私はアレルギーを持っていたような気がします。
おそらく今もなお、その偏見は残留しているのだろうと思います。

私は宗教について非常に深く悩んでいます。
普段は滅多に口にしませんが、心の底では常に、文字通り常に、考え続けています。

ずっと停滞したまま一人で抱え込むにはこの問題は深刻すぎると、かねてから思い続けていました。
あまりにも辛いときは少しだけ、話せそうな人に話したりもしました。
そんな中途半端な姿勢のまま、なかなか積極的に踏み出す気になれなかったのは、人に話すことに対する恐れ、自分自身がこの問題に向き合うことへの恐れ、その両方があったからです。

しかし、このままだと本当にまったく考えが進まない。
それはつまり、この苦痛をこれから先もずっと抱え続けるということ。
そして未解決のまま人生が終わるという、取り返しのつかない事態に辿り着くということ。
これ以上の恐怖があろうかと思い直し、長年胸の中で温め続けていたこの話題を、遂に書き始めることにしました。
もしご興味ありましたら、これから先どうぞよろしくお願いいたします。

***

当面は、私は宗教の何をそんなに悩んでいるんだろうか、ということについて書いていきたいと思います。
既にこの時点で自分としてはもう霧を掴むような心地なのですが…ひとまずできる範囲でやってみようかと。

今回はまず、これまでの人生における宗教観の経緯をさらっておきたいと思います。


▼ 0~18歳


無宗教。科学主義者。


お墓やお盆などは一応曹洞宗の形を取っていましたが、完全に形骸化したもので、そこに信仰はありませんでした。
お盆には亡くなった親族の霊をお迎えする、神社では二礼二拍手一礼で神様にお祈りするなど、風習として知っているしやっているものの、本当に霊が来ている、本当に神様がいるなどとは思っていませんでした。
「へえ、まあ、やるんですね、はい(信じてもいないのに変なの)」と、ただ何となく付き合っている感覚でした。

年頃になると、アンチ宗教とも言える態度を取るようになりました。
幽霊とか、神様の創造とか、天国と地獄とか、輪廻転生とか、そんな非科学的な話をよくもまあ本気にするなと。
ファンタジーのネタとしては面白いけど、本気にして現実の人生を預けちゃうとか信じられない。
そんな人が世界に何億人もいて、寧ろそっちの方がメジャーだとかほんとあり得ない。
そんな風に思っていました。

この科学主義は父の受け売りです。
人生観は人の数だけあると認める寛容さを持ちながら、父自身は徹頭徹尾科学主義者で、子どもに対する教育も自然とそれに基づいたものになりました。
これには母を始め、他の家族も同意していました(と言いますか、もともとそんなに深く考えている様子はありませんでした)。

「人は死んだらどうなるの?」
父の答えは「わからない」だったと記憶しています。
人生一度きり、死んだら終わり、という人生観も教わったように思います。


▼ 19歳


無宗教。イスラームに出会う。


大学では学問的興味が定まらず、手当たり次第に語学をかじっていました。
そのうちのひとつがアラビヤ語、その繋がりで触れたのがイスラームでした。
講義を受講したきっかけは、アラビヤ語の勉強に役立つかも、世界観が広がるかも、ついでにゼミにも繋がるかも、ぐらいのシンプルな気持ちでした。

まず、教授が実際にイスラーム教徒だと知ってびっくり。
しかも、キャンパス内に他にも数名イスラーム教徒がいるとのこと。
あれほど蔑んでいた宗教というものが実はこんなに身近だったのだと、目の覚めるような思いでした。
イスラームを信じているというその人たちは、とても非科学的で考えなしの人間には見えないし、寧ろ聡明で、女性がヴェールを被っていること以外、他と何ら変わりないごく普通の日本人でした。

更に驚いたのが、神の存在、神が一であること、現世と来世、天国と地獄、そういった世界観は、個々の人が信じる信じないにかかわらず真実であるということ。
たとえ私が否定しても神はいるし、来世もあるし、死後にすべての人間は天国と地獄に振り分けられるのだということ。

非科学的なのに真実だと断言できるって、一体どういうこと…?
それがつまり信仰なのかな?
要は究極の思い込みですよね?
科学で論破できちゃうわけですよね?
でもこの人も大学教授なわけで、そんな荒唐無稽な思い込みで学問のプロを務められるわけないよなぁ…。
聴きながら、一人静かに混乱していました。

ある日、それに答えるかのように講義で言われたのが「宗教と科学は対立しないし矛盾もしない」という言葉。
(具体的に説明するには私の頭が足りず収拾がつかなくなりそうだったので、ご興味ありましたら調べてみてください)
思えば、宗教と科学は方法や領域こそ異なるけれど、どちらも真理を求めることには変わりなく、対立どころか同じ方向を向いているんですね。

そして極めつけが「人は死んだらどうなるの?」という問いの答えでした。
科学では「わからない」。
でも宗教はこの問いにあっさり答えてみせます。
世界中すべての人は死後、最後の審判で復活し、天国か地獄に振り分けられ、永遠にそこで暮らし続ける。

明らかに領域が異なる。
人が生きていくのに科学だけでは足りない。

それまでの人生観を粉々に砕かれたのでした。


▼ 20~21歳


一応、無宗教。イスラームがかなり気にかかる。


語学とともにイスラームの勉強を続けました。
研修でシリアやレバノンを訪れたりしました。
クルアーンを原文で読んだりもしました。
気になることを教授に片っ端から質問したりもしました。
学問としてというより、自分の人生に向き合っているような心持ちでした。

粉砕された従来の人生観と、何もかもが新しいイスラームの世界観と、両者がせめぎ合い押しつぶされるような心地でした。
覆されたとはいえ、それまでの人生で培ってきた価値観をばっさり切り捨てることもできないし、新しい道が拓けたからといって過去を全否定するのは間違っているとも思いました。
しかし、イスラームは信じようが信じまいが揺るぎなく真実であり、神は今この瞬間も私を見ていて、このままでは間違いなく死後地獄に送られる…。
半信半疑、信じるべきらしいけれど信じきれない、宙ぶらりんの状態になりました。

そんな中、気付いたら豚肉を食べることに抵抗を感じている自分がいました。
(ちなみにお酒はもともと嫌いで、今も昔も飲みません)

ある冬の日、大学の食堂でお昼のメニューを選んでいたときのことを、今も印象深く覚えています。
「豚肉…食べないでみようかな。禁止されているとわかっていながらわざわざ食べるのもどうかと思うし…入信してないんだから無意味だと思うけど…」
そう思い、一度は目に留まったスンドゥブを避けました。
それ以来、ずっと豚肉を食べない生活を続けています。
(余談ですが、豚肉を食べられないことに対する苦痛は意外にもまったくありません。ただ、外食などでときどき困ったりします)


▼ 22歳


一応、無宗教。停滞の始まり。


大学卒業後も、イスラームの教義は変わりなく私の心に残っていました。
宙ぶらりんの状態もまったくそのまま。
考えても考えても、事態が一向に進みません。

ある秋の日、急に危機感と不安感が爆発し、衝動的に代々木のモスク・東京ジャーミィを訪れました。
ヴェールを被ってモスクの端っこに座り込み、時間も忘れてぼーっと考え込んでいると、スタッフの人が観光客にあれこれ説明をしていました。
説明が終わった後、思いきって声をかけ、代表の方も含めてお話をさせていただきました。
疑問に思っていた様々なことを質問しまくり、代表の方にもスタッフさんにも、真剣に聞いていただき、答えていただきました。

しかし、それでももやもやは晴れず。
もうこれは思いきって一歩踏み出さないとだめなところまで来ているのかなと、持ち帰ったパンフレットを自室で眺めていたところ、母が入ってきました。
どうしたのと聞かれ、隠さずそのまま答えると…空気が一瞬にして凍りました。

「娘が宗教に入ろうとしている」。
確かに字面だけ見るとすごく危ない香りがします。
宗教を遠ざけてきた私の家族であれば、偏見も強く尚更そう感じるでしょう。
別に怪しいカルトに惹かれてるとかじゃないんだけど…と思ったのですが、母の不安はとどまるところを知りませんでした。

父はこの件について冷静でした。
しかし、相談した席で告げられた一言が今も忘れられません。

「宗教も思想も自由だけど、今はお願いだからちょっと待って。母の精神衛生に悪いから」

宗教が自分一人の問題ではないこと。
宗教を自分事として考えることが、周囲の人にも影響を及ぼすということ。
宗教を口にすることが、良くない波風を立てるということ…。
入る前からこれなら、一歩踏み出したら一体どんなことになってしまうのか想像もつかない。

…私は、自分の人生観に決着をつけたいだけなのに。

ただでさえ何も信じきれず宙ぶらりんなところに、周囲を巻き込むという足枷がついて、完全に動けなくなりました。


▼ 23歳~現在


一応、無宗教。イスラームはもちろん、他の宗教も眺めつつ宙ぶらりん。


宗教を学んで以来、身の回りの人たちの宗教や人生観にも自然と触れるようになりました。
宗教関連の言説があると、いつも興味深く拝見しています。

数ある宗教はどれも自らを真実だと言う。
それっておかしい。結局どれが世界の真実なの?
どれが従うに足る教えなの?

しかもイスラームを知ってしまった今、別の宗教に進んだとして、それって死後地獄送り確定じゃないか。
そう考える辺り、私は既にイスラームを信じているのか?
でも相変わらず納得いかない部分はあるし。
一方で、仏教の世界観を知るたびになるほどと思っている自分もいるし…。

とかなんとかもう非常にごちゃごちゃとした考えのまま、今に至ります。

***

なんでこんなに人生観ひとつで悩みまくっているのかと、徒労だと思われる方もいるかもしれません。
でも私はもう、この問題に決着をつけるまで、安心して生きることも死ぬこともできません。
このまま人生が終わってしまったらと思うと恐ろしくなります。
死そのものより、宗教がはっきりしないまま死にたくないと思っています。

というわけで、支離滅裂ながら今回はここまで。
また後日、気が向いた頃に続きを書こうと思います。
長文にお付き合いくださりありがとうございます。
就活を柔らかい頭で考える
そういえばもう12月、世の大学三年生がこぞってリクルートスーツを着始める頃だな…と思ったら、今年から企業の採用活動が3月スタートになるんですね。
あちこちで物議を醸したあの計画が遂に始まるのかと思いつつ、今回その話題は一旦よそに置いておいて。

ちょっと時期尚早かもしれませんが、思い立ったので今書きます。
そろそろそわそわし始めている就活生もいるかもしれませんし。

最初に私がどんな人間か簡単にお話ししておきますと、
  • 2012年度就活生(学部生)
  • 新卒でIT企業にプログラマーとして入社
  • 2年と1ヶ月で退職
  • 7ヶ月無職、うち3ヶ月Web制作の職業訓練校に通う
で、今まさにフリーランスのWebデザイナーとして開業しようという、若手のひよっこです。
それでは早速。


▼ うまく言えないけど、なんかおかしい


就活だ!
リクナビだ!
マイナビだ!
日経新聞だ!
自分探しだ!
業界研究だ!
OB訪問だ!
合説だ!
大企業だ!

就活のシーズンになると、学生たちが一斉にそんなことを言い合ってざわざわ動き出します。
(一部の人はもっと前からもぞもぞ動いているかもしれませんが。インターンとか何とか)

誰も彼も一様にリクルートスーツに身を包み、染めていた髪は黒くなり、東京ビッグサイトに黒軍団の大行列を成し、張り付いたような笑顔にギラギラした目で、何かにつけて意識の高さをアピールし、会社に“採用してもらう”べく奔走する。
自由気ままだった学生たちが凄まじい変貌ぶりを見せます。
「この波に乗り遅れたら負け組だ」的な、何だかよくわからない圧力を全身に感じるようになります。

かく言う私は当時、この異様な現象にとてつもない気味の悪さを覚えました。
ただ、心は断固拒絶していたものの、大学院に行くつもりはないし、だったら働かなきゃいけないし、それならやるしかないし…と、しぶしぶこの奇妙なイベントに参加していました。

こんな風に、就活に対して「上手く言えないけど、なんかおかしい」と強烈な違和感を感じている人、相当数いるんじゃないでしょうか。
その違和感、何かの拍子にうっかりなくしてしまわないよう、大事に抱えておいてほしいのです。
実際おかしいんです。
「就活 おかしい」とかで検索すると、就活の何がどうおかしいのか、無数の指摘がわらわら出てきます。

就活の何がどうおかしいのかについては、上記など他のソースにお任せしておきます。
この記事では、何やら鬼気迫るような『就活』というイベントについて、もっと落ち着いて、俯瞰して、柔らかく考えてみようというところを書いていきます。


▼ そもそもなんで就活するんだっけ


これ。就活の急き立てられるような圧力に気圧されて、結構忘れがちですよね。
就活、就活、就活…と視野がどんどん狭くなる前に、そもそものところをじっくり考えて押さえておくと、後々迷走したり病んだりせずに済むと思います。

大学三年=就活、ぐらいの勢いで定着しているこのイベント。
何のためにやるかと言えば、言うまでもない、就職するためですね。

では、何のために就職するんでしょうか。
どうして今、躍起になって就職しなければならないんでしょうか。

みんなやってるから、やらなきゃなんかやばそうな気がする?
ふざけているようで、真面目な話、案外こういう人も多そうですよね。
実際、就活の圧力って有無を言わせないような強力さで迫ってきます。
無理もないと思います。

新卒で正社員になれなきゃ人生終わりだから?
冷静に考えれば明らかに近視眼ですが、実際当事者はそれぐらいの鬼気迫る感覚があるんですよね。
現に就活が原因で鬱になる人、果ては自殺してしまう人も大勢います。
かく言う私も秋まで内定が出ず、ぼろぼろの精神状態になりました。

でもちょっと落ち着きましょう。
「人生終わり」って、具体的にどういうことでしょうか。
誰かに殺される!とか、物理的に死んでしまうわけではなさそうですよね。
多分、何らかの状況のことをそう表現しているのだと思います。
それはどんな状況でしょうか。
そして、その状況にある知り合いの人が身の回りにいるでしょうか。
その人は「人生終わってる」でしょうか。
あるいは楽しく、あるいは必死に、あるいは充実して、あるいは苦労して、あるいはのんびり、生きていませんか?
みんなそれぞれ、別々のやり方で一生懸命生きていませんか?
「人生終わり」と形容するほど、深刻な暮らしぶりでしょうか?

おや?と思っていただけたなら嬉しいです。

話を少し戻しましょう。
就職に必要以上に躍起になることはない、ということはおわかりいただけたかと思いますが、そもそも論として「就職」って何でしょうか。

職に就く、つまり、お金を得る仕事をする、ということでしょうか。
どうすればお金を得る仕事をできるでしょうか。
会社員になる。それ以外は?
公務員になる。
バイトやパートで働く。
家業を継ぐ。
起業する。
思えばいろいろな仕事の形がありますね。
就活と言うと、企業の新卒採用!って直結してしまいがちですが、どうも選択肢は会社勤めだけではなさそうです。

もっと言えば、大学卒業後の道って就職だけじゃありませんよね。
パッと思いつくところで、大学院とか。
将来の目標に向けて資格の勉強とか。
夢に向かって師匠のもとに弟子入り修行とか。
結婚して専業主夫・専業主婦とか。
バックパック背負って世界を旅するとか。
とりあえず誰かの仕事の手伝いをしてみるとか。
疲れたので一旦休養とか。

おや?と思っていただけたなら、とても嬉しいです。

  • 就活は就職するためにやる。就職には正社員以外にも様々な選択肢がある。
  • 卒業後の道は就職以外にも様々な選択肢がある。

就活って、特定の進路に進むための単なる一手段なんですね。
実は相当限定的なお話なのです。
誰もが絶対やらなければならないこと、では断じてありません。

一見、言うまでもない当たり前のことに見えるけれど、案外これが周りに流されて頭からスポーンと抜け落ちたりするものです。
それでも私は就活する!という場合にも、このことはぜひ念頭に置いておくと、後々むやみに追い詰められずに済むと思います。


▼ 大企業、正社員、ほんとにそれがベスト?


就活で吹き込まれる価値観といえばこれ。
大企業に勤めなきゃ! 中小とか、なんかちょっとないし。
正社員にならなきゃ! 派遣とかバイトとか、なんか不安定そうだし。

ここまで短絡的でなかったとしても、大企業志向、正社員志向は実際根強いです。
しかもその理由が、上記のような「なんか○○」みたいな先入観によるものだったりします。

実際、就活当時の自分は正社員志向でした。
理由は「安定してそうだから、なんとなく安心できるから」という超ありがちなふわふわしたイメージを持っていたから。
あとは「新卒を逃すと正社員になるのは難しい“らしい”」というのもありますね。
これもやっぱり噂やイメージの域を出ていません。

大企業、正社員、本当にそれがベストと言い切れるでしょうか。
他の選択肢、どれくらい知っていますか。
それぞれのメリットデメリット、しっかり調べた上で決めていますか。

…厳しいこと言っておいて何ですが、これ、学生にとってはちょっと酷な要求かもしれません。
というのも、私自身がまさにそうだったのですが、どんなにあれこれ調べても、働いたことないから実感として理解できないのです。
結局はやってみなきゃわからないんですよね。(実際その通りでした)

なので、大企業・正社員になんとなくこだわるのは一旦いいとして、その根拠って実はすごく不確かなんだと自覚して、他の選択肢を問答無用でシャットアウトしないようにするといいと思います。
実感が湧かなくてもいいので、調べるだけ調べておく。
これ以外の選択肢はあり得ない!みたいに視野が狭くなると、追い詰められてしまうかもしれないのでご注意ください。


▼ 正直なところ、どうしたい?


実は就活するに当たって一番大事なのってここだと思うんですね。
私が就活当時、一番できていなかったのもここです。
結果、三年もたずに辞めました。
詳しくはこちらの記事をどうぞ「私が会社を辞めた理由」

とりあえず…とか、仕方ないし…とか、みんなやってるしなんとなく…とか、現実的に考えて…とか、ありとあらゆる言い訳を抜きにして。
本当は何が好きなのか。
本心ではどうしたいのか。

立派でなくていいです。
だらしなくていいです。
格好悪くてもいいです。

疲れたしちょっと一年ぐらいぼーっとしたいなーとか。
好きなだけ家でゲームやってたいわーとか。
世界一周旅行したいなーとか。
実はバンドで食っていきたいんだよねーとか。
田舎で野菜作りとかちょっと面白そうなんだよねーとか。
なんかもう何もかも投げ出して一旦立ち止まりたいなーとか。

わからない、でもいいです。
ごちゃごちゃとした思考に阻まれて、本心が見えないのはよくあることです。
怖くても、ちょっと頑張って自分自身に真正面から向き合ってみる。
わからないなりに一生懸命向き合って、考えて、片鱗だけでも掴むといいです。

そして、その本心を絶対にないがしろにしないでください。
その本心を開放する方向に進むようにしてください。

たとえば私の場合の本音ですが、
  • アニメ、マンガ、ファンタジー大好きだー
  • もの作り楽しー
  • ネット楽しー
  • 一人黙々とマイペースが一番だなー
趣向の本音がこの辺で、
  • なんかもう一回立ち止まりたいわー
  • 就活嫌だなー
  • 会社だけの人生とか絶対嫌だわー
  • プライベートだけは譲れないわー
どうしたい、的な本音がこんな感じでした。
で、実際選び取った道が「無理やり就活続行、ぼろぼろになりながらもホワイトな会社のもの作り職に就く、プライベート優先で趣味はそっちでやろう」だった訳ですが、本心の大半を全力で無視しているのがわかります。(立ち止まりたいのに動き続けるとか、就活が嫌とか、好きなことは隠れてやろうとか)

当時の自分にとって力を尽くした選択だったので、後悔はしていません。
でも、本心にちゃんと向き合っていなかったこと、その結果後々苦労したことは確かです。

本心を満たす選択って難しいと思いますし、妥協したり、わからないままとりあえず進んでみたり、あーやっぱり違ってたなとか、全然あると思います。
ただ、どうか本心をないがしろにせず、耳を傾けて、それを核にして道を選び取るよう、意識してほしいと願ってやみません。
嫌々やることを人生の中心に据えないでほしい。
本心に沿った生き方の方が、能力を存分に発揮して気持ちよく健康に過ごせると思うんですよね。

***

というわけで、就活を柔らかい頭で考える試みでした。
長々とした文章にお付き合いありがとうございます。
この記事が少しでも誰かのお役に立てたなら幸いです。
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プロフィール
HN:
まなか
自己紹介:
創作や紅茶が趣味の元プログラマー。
新卒入社した会社を2年と1ヶ月で辞め、次のステップに向けて充電中。
マイペースに生きています。
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