自分のこと、人間のこと、人生のこと。ときどき立ち止まっては書き込んでいきます。
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2024/11/21/Thursday
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できないことはそっとしておく
2014/11/22/Saturday
ばりばりと仕事をこなせない。
人並みの速さで動けない。
決めた通りに進められない。
思うように手が動かない。
やらなきゃと思えば思うほどできない。
上の特徴を読んでどう思われるでしょうか。
のろま? マイペース? 使えない?
もしくは、自分に当てはまってギクッとしたとか。
いろいろあるかと思いますが、これを見て「いいね!」とポジティブに思う人はなかなかいないのではないでしょうか。
***
「できない」にはネガティブな評価がつきものです。
社会全体にそのような価値観が蔓延っているように思います。
できる人は高く評価され、できない人は低く評価される。
できないままではいけない。できるようにならなければならない。
もっともっとできるようになって、成長して、周りとの競争に打ち勝って、より高いところを目指して…。
そんな、盲目的というか、画一的というか、で結局なんなの?というような謎の上昇志向。
学校でも会社でも家庭でも世間でも、あらゆる場が当たり前のようにこの価値観に基づいて構築されているように思います。
かくいう私でさえ、最初に書いたような特徴は致命的であり、努力や工夫をして克服すべきものと思っていました。
むしろ「できるできないじゃないんだよ、やれよ」ぐらいに思っていました。
(ちなみに上に挙げた特徴はすべて私自身のことです)
ところがこれがいつまで経ってもできない。
どんなに工夫しても努力しても、叱咤しようが時間をかけようが何をしようが、とにかくできない。
これほどやってもできないなんて、自分はどれだけだめなのかと、思い悩んだところでやっぱりできない。
苦しみ抜いた挙げ句、考え方が変わりました。
もう、できないことはそっとしておこうと。
***
というのも、できないできないと言って苦しんでいるのは自分ばかりで、周りの人たちはそんなこと全然気にしてないし、むしろこんな自分のことを評価してくれているな、と気付いたのです。
共感こそすれ、「だめだこいつ」と責めたり低く評価するような人は、そういえば一人もいないなと。
むしろ、できないところとは全然別の部分で高く評価してくれていたりするよなと。
それに、たとえできないことを悪く評価されたところで、どう頑張ってもできないんだからもう仕方ないじゃないかと。
できないことは諦めてそっとしておいて、この日この時、できることをできるようにやるしかないじゃないかと。
そんな風に思うようになりました。
***
たとえば、これは個人的な実際の話ですが、一週間前に着手しているべきとあるタスクが未だにできていません。
以前なら「まずい、遅れてる…やらなきゃ、やらなきゃ…」と自分を責める(割に結局できない)ところですが、今は「あ~、できてないな。まあいつかやるでしょ」ぐらいに捉えています。
そんな悠長な!とか、いつかやろうは馬鹿野郎だ!とか、批判される方もいるかもしれませんが、本当に切羽詰まったらどうせやるし、調子のいいときになんか知らんけど気付いたらできてた、というようなことも起こります。
ちょっとこの記事ともリンクしてきましたね。
⇒ がんばれないときは黙って待つ
***
できないことをできるようにしようという、いわば「完璧な自分」「理想の自分」になろうとするがんばりは、一見美徳のように見えるけれど、実は不健康で非生産的な行動なのかもしれません。
そんな風にならなければいけないという謎の上昇志向は、存外、悪しき執着なのかもしれません。
「完璧な自分」「理想の自分」にならなくとも、生きていくのに何も問題ないし、そのまんまの状態で、他のできる部分がきちんと評価されているんだから。
苦手なことは苦手なまま、下手なりにやっていればOK。
その時々で、できることをできるようにやっていればOK。
「理想的な何者かになれ!」と四方八方から迫られるような、何かと窮屈なこの世の中、それぐらいおおらかな気構えで生きてもいいんじゃないかな、と思う今日この頃です。
人並みの速さで動けない。
決めた通りに進められない。
思うように手が動かない。
やらなきゃと思えば思うほどできない。
上の特徴を読んでどう思われるでしょうか。
のろま? マイペース? 使えない?
もしくは、自分に当てはまってギクッとしたとか。
いろいろあるかと思いますが、これを見て「いいね!」とポジティブに思う人はなかなかいないのではないでしょうか。
***
「できない」にはネガティブな評価がつきものです。
社会全体にそのような価値観が蔓延っているように思います。
できる人は高く評価され、できない人は低く評価される。
できないままではいけない。できるようにならなければならない。
もっともっとできるようになって、成長して、周りとの競争に打ち勝って、より高いところを目指して…。
そんな、盲目的というか、画一的というか、で結局なんなの?というような謎の上昇志向。
学校でも会社でも家庭でも世間でも、あらゆる場が当たり前のようにこの価値観に基づいて構築されているように思います。
かくいう私でさえ、最初に書いたような特徴は致命的であり、努力や工夫をして克服すべきものと思っていました。
むしろ「できるできないじゃないんだよ、やれよ」ぐらいに思っていました。
(ちなみに上に挙げた特徴はすべて私自身のことです)
ところがこれがいつまで経ってもできない。
どんなに工夫しても努力しても、叱咤しようが時間をかけようが何をしようが、とにかくできない。
これほどやってもできないなんて、自分はどれだけだめなのかと、思い悩んだところでやっぱりできない。
苦しみ抜いた挙げ句、考え方が変わりました。
もう、できないことはそっとしておこうと。
***
というのも、できないできないと言って苦しんでいるのは自分ばかりで、周りの人たちはそんなこと全然気にしてないし、むしろこんな自分のことを評価してくれているな、と気付いたのです。
共感こそすれ、「だめだこいつ」と責めたり低く評価するような人は、そういえば一人もいないなと。
むしろ、できないところとは全然別の部分で高く評価してくれていたりするよなと。
それに、たとえできないことを悪く評価されたところで、どう頑張ってもできないんだからもう仕方ないじゃないかと。
できないことは諦めてそっとしておいて、この日この時、できることをできるようにやるしかないじゃないかと。
そんな風に思うようになりました。
***
たとえば、これは個人的な実際の話ですが、一週間前に着手しているべきとあるタスクが未だにできていません。
以前なら「まずい、遅れてる…やらなきゃ、やらなきゃ…」と自分を責める(割に結局できない)ところですが、今は「あ~、できてないな。まあいつかやるでしょ」ぐらいに捉えています。
そんな悠長な!とか、いつかやろうは馬鹿野郎だ!とか、批判される方もいるかもしれませんが、本当に切羽詰まったらどうせやるし、調子のいいときになんか知らんけど気付いたらできてた、というようなことも起こります。
ちょっとこの記事ともリンクしてきましたね。
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***
できないことをできるようにしようという、いわば「完璧な自分」「理想の自分」になろうとするがんばりは、一見美徳のように見えるけれど、実は不健康で非生産的な行動なのかもしれません。
そんな風にならなければいけないという謎の上昇志向は、存外、悪しき執着なのかもしれません。
「完璧な自分」「理想の自分」にならなくとも、生きていくのに何も問題ないし、そのまんまの状態で、他のできる部分がきちんと評価されているんだから。
苦手なことは苦手なまま、下手なりにやっていればOK。
その時々で、できることをできるようにやっていればOK。
「理想的な何者かになれ!」と四方八方から迫られるような、何かと窮屈なこの世の中、それぐらいおおらかな気構えで生きてもいいんじゃないかな、と思う今日この頃です。
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プロフィール
HN:
まなか
自己紹介:
創作や紅茶が趣味の元プログラマー。
新卒入社した会社を2年と1ヶ月で辞め、次のステップに向けて充電中。
マイペースに生きています。
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