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自分のこと、人間のこと、人生のこと。ときどき立ち止まっては書き込んでいきます。
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自分を変えるには時間がかかる
長らく無職を続けていましたが、今月頭、形だけではありますがようやく個人事業主となりました。
詳しくは別ブログ『cielo』「個人事業主になりました」をどうぞ。

会社を辞めたのが昨年の4月なので、無職の期間、実に八ヶ月。
再スタートまでにこんなに時間がかかるとは思いませんでした。

この間、自分の「できなさ加減」に非常に苦しめられました。
退職直後三ヶ月、ストレスによる体調不良を引き摺って体が思い通りに動かない。
職業訓練に通っていた三ヶ月、日常生活と訓練校に追われて開業の準備に手が回らない。
訓練終了後の二ヶ月、開業に向けての頑張りどころなのに作業が遅々として進まない。

このブログでも「できない」の取り扱いについては何度か記事を書いています。
がんばれないときは黙って待つ
できないことはそっとしておく
そのくらい、常に意識が「できない」にフォーカスされている日々を送ってきました。

確かに自分はもともとがマイペースだし、何事もじっくりゆっくりやるタイプだけど、それにしたってこの体たらくは酷い。
人生のひとつひとつ、生活のひとつひとつを自分の頭で考え決めて、今はもう、大学時代や会社員時代とは比べものにならないほど良い環境に身を置いている。
それなのに何故か思うようにできない。動けない。苦しい。
そんな風にいつも焦りに苛まれていました。

でも、あるときふと腑に落ちました。
思うようにできない自分が悪いとか、そういうことではないんだなと。
最初から見積もりが間違っていたのです。

崩した体調が元に戻るまでにかかる時間。
新生活をスタートさせ、身辺を一通り整えるのにかかる時間。
開業の準備にかかる時間。
退職してから新しい仕事を始めるまでにかかる時間。

こういうことを「本気を出せばすぐできる」と思っていたのが間違いだったのです。

本気を出してもすぐになんかできない。
安易に変われる、変えられると思ってはいけない。
「これさえやれば劇的に変わる!」なんて、そんな自己啓発本の帯の売り文句みたいなことを期待してはいけない。
低迷していた大学時代と会社員時代、そこだけを考えても丸六年。
六年間もかけてできあがってきた自分という人間を、たかだか一、二ヶ月で綺麗さっぱり理想通りに変えられる訳がない。

長い時間をかけて作り上げられてきた自分を変えるには、同じように長い時間がかかる。
そのことに、私も長い時間をかけて気付くことができました。

「どうして思い通りにいかないんだ」と焦る人。
「自分はダメ人間だ」と責めるひと。
「自分なんてどうせ」と卑屈になる人。
私のように焦っていませんか。
見積もりを間違えていませんか。
もっと時間をかけてみませんか。

時間がかかるということは、それだけ長く苦しむということ。
それは考えるだけでも辛いことです。
でも、最初から時間がかかると思ってかかれば、焦りや自責という大きな苦しみを避けることができます。

私の気づきが他の誰かのお役に立てたなら、とても嬉しく思います。
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笑顔の裏の厳しさを超えて
幸福度が低い国、日本。
生きづらい国、日本。
足を引っ張り合う国、日本。

新生活とか体調とか仕事とか宗教とか、生きるって大変だなと思う要因は多々ありますが、その中でも特に漠然として独り相撲になりがちなのがこれ。
日本社会の息苦しさです。

もうかれこれ十年ほど苦しんでいるのかな。
思春期らへん、世の中が見えてくるようになった辺りからずーっと。
多分、誰しも肌で感じているんだろうなと思うのですが。

思っていることを言わない。
本音と建前の落差が激しい。
我慢を美徳とする価値観が根強い。
飛び抜けたことをすると叩かれる。
上手くいっている人がいると足を引っ張る。
陰口や愚痴や他人の噂が多い。
ニコニコしながら心の中で呪詛を吐く。
空気を読めと無言の圧力で強制する。
察することを要求する。

裏を返せば美徳だ、ともしばしば言われますが、個人的にはマイナスにはたらいているケースの方が圧倒的に多いと感じています。
現に我々は幸福度が低く生きづらい国を形成してしまっている訳で、日本人特有の性質だって使い方を間違えれば美徳でもなんでもないよ、というのが率直な意見です。

よく「日本人は寛容だ」と言われたりしますが、私はまったくもって逆だと思っています。
日本人は厳しいです。特に他人に対して。
しかも本人に直接厳しくするのではなく、遠回しだったり、建前では肯定して見せたり、言葉にせず心の中でだけ思ったり、社会全体で価値観を共有して“空気”で押しつぶす、そんな風な形で。
言ってしまえば卑怯な厳しさです。

足を引っ張られるとか、出る杭は打たれるとか、そういう厳しさもありますね。
「みんな辛いんだからお前も付き合えよ」とか。
「おいおい、空気読めよ?みんなこうしてるだろ?」とか。
そういう謎の圧力を怖れた結果、一人一人から個性や生気が失われていったり。
特にこれは社会に出てから嫌というほど、日々ひしひしと感じていました。

あとは「~べき」とか「~して当然」というような厳しさですね。
画一化された理想像が強すぎて、そこから少しでもはみ出していると「えっ…」と突き刺すような視線を向けられたり。
「女なんだから」「男なんだから」「社会人なんだから」「○○歳なんだから」などなど。

手っ取り早く言うと、素直さが足りない。
笑顔の裏に厳しさを隠し持つ二面性。
そんなような感じでしょうか。

一気に捲し立ててしまいましたが、もちろんこれらすべてが特大のブーメランであることは承知の上です。
国中を包み込んでいてあまりにも強大な価値観なので、やむなく屈していた時期もありましたし、今だって気付かずに染まっている部分もあると思います。

それでも私は、どーーーーーーーーしてもこの価値観に喧嘩を売りたいんですね。
おかしいものはおかしい。
おかしいと思うものに従うことはできない。
そんな思いで、不毛な独り相撲を何年も続けていたりします。

ただこれ、単に言葉にして叫ぶだけではそれこそ愚痴と変わらなかったりするんですよね。
だから本気でおかしい、変えたいと思うなら、一番の方法は自分で体現することなのかなと。
しかもそれを他人に向けてやろうとするんじゃなく、まずは自分自身に向けてやってみる、それが大事なのかなと、そんな風に思っています。

思っていることと逆のことを言わない。
思っていることはちゃんと言葉で伝える。
辛いと思うことをやり続けない。
ぽっと出てきたポジティブな芽を「どうせ」と言って潰さない。
理想的な自分であろうとしない。
格好悪い自分、不出来な自分、情けない自分を全部外に出す。
より楽になる方向、より生きやすい方向へ進む。
人に期待しない。
自分にも期待しない。

というのも、自分と他人は別々ではなく、自分も他人のうちだと思うのです。
そして、唯一自分の手で変えられる他人は自分だけ、とも。

このブログでも、生き方を変えてみたり宗教の悩みを暴露してみたり、まあ何とも恥ずかしい個人的なことをあれこれ書いているわけですが、これも体現のうちのひとつだったりするんですね。
生きづらさをまずは自分から打破してやろうと。
結局まだしばらくは独り相撲かなぁ~などと思ったりもしますが、ネガティブと闘う相撲からポジティブに向かおうとする相撲になったわけだし、忘れた頃に何か変化があるかもしれませんね。

もうすぐ2014年も終わり。
来年も今のまま、格好悪く、下手くそに、恥をさらしながら、それでも真っ直ぐに、一生懸命、この生きづらく厳しい日本で、まずは自分から変わっていきたいなぁと思っています。
できないことはそっとしておく
ばりばりと仕事をこなせない。
人並みの速さで動けない。
決めた通りに進められない。
思うように手が動かない。
やらなきゃと思えば思うほどできない。

上の特徴を読んでどう思われるでしょうか。
のろま? マイペース? 使えない?
もしくは、自分に当てはまってギクッとしたとか。

いろいろあるかと思いますが、これを見て「いいね!」とポジティブに思う人はなかなかいないのではないでしょうか。

***

「できない」にはネガティブな評価がつきものです。
社会全体にそのような価値観が蔓延っているように思います。
できる人は高く評価され、できない人は低く評価される。
できないままではいけない。できるようにならなければならない。
もっともっとできるようになって、成長して、周りとの競争に打ち勝って、より高いところを目指して…。
そんな、盲目的というか、画一的というか、で結局なんなの?というような謎の上昇志向。
学校でも会社でも家庭でも世間でも、あらゆる場が当たり前のようにこの価値観に基づいて構築されているように思います。

かくいう私でさえ、最初に書いたような特徴は致命的であり、努力や工夫をして克服すべきものと思っていました。
むしろ「できるできないじゃないんだよ、やれよ」ぐらいに思っていました。
(ちなみに上に挙げた特徴はすべて私自身のことです)

ところがこれがいつまで経ってもできない。
どんなに工夫しても努力しても、叱咤しようが時間をかけようが何をしようが、とにかくできない。
これほどやってもできないなんて、自分はどれだけだめなのかと、思い悩んだところでやっぱりできない。

苦しみ抜いた挙げ句、考え方が変わりました。

もう、できないことはそっとしておこうと。

***

というのも、できないできないと言って苦しんでいるのは自分ばかりで、周りの人たちはそんなこと全然気にしてないし、むしろこんな自分のことを評価してくれているな、と気付いたのです。
共感こそすれ、「だめだこいつ」と責めたり低く評価するような人は、そういえば一人もいないなと。
むしろ、できないところとは全然別の部分で高く評価してくれていたりするよなと。

それに、たとえできないことを悪く評価されたところで、どう頑張ってもできないんだからもう仕方ないじゃないかと。
できないことは諦めてそっとしておいて、この日この時、できることをできるようにやるしかないじゃないかと。
そんな風に思うようになりました。

***

たとえば、これは個人的な実際の話ですが、一週間前に着手しているべきとあるタスクが未だにできていません。
以前なら「まずい、遅れてる…やらなきゃ、やらなきゃ…」と自分を責める(割に結局できない)ところですが、今は「あ~、できてないな。まあいつかやるでしょ」ぐらいに捉えています。
そんな悠長な!とか、いつかやろうは馬鹿野郎だ!とか、批判される方もいるかもしれませんが、本当に切羽詰まったらどうせやるし、調子のいいときになんか知らんけど気付いたらできてた、というようなことも起こります。
ちょっとこの記事ともリンクしてきましたね。
がんばれないときは黙って待つ

***

できないことをできるようにしようという、いわば「完璧な自分」「理想の自分」になろうとするがんばりは、一見美徳のように見えるけれど、実は不健康で非生産的な行動なのかもしれません。
そんな風にならなければいけないという謎の上昇志向は、存外、悪しき執着なのかもしれません。
「完璧な自分」「理想の自分」にならなくとも、生きていくのに何も問題ないし、そのまんまの状態で、他のできる部分がきちんと評価されているんだから。

苦手なことは苦手なまま、下手なりにやっていればOK。
その時々で、できることをできるようにやっていればOK。

「理想的な何者かになれ!」と四方八方から迫られるような、何かと窮屈なこの世の中、それぐらいおおらかな気構えで生きてもいいんじゃないかな、と思う今日この頃です。
無気力でつらいときは散歩を
やらなければいけないことがたくさんあるのに、何も手につかない。
一日中家に引きこもってめいっぱい休んでも、だるくて元気が出ない。
寝るのも、食べるのも、ネットするのも、ゲームするのもしんどい。

そんな状態に陥ってしまったら、散歩に行くと良いです。

どこそこに行って何を買うとか、用事を済ませるとか、そういうのは一切なし。
なるべくどうでもいい、漠然としたことを目的にして歩きます。

行き先はなるべく近所。
気合いを入れなくてもふらっと行って帰れる範囲で歩きます。

どうでもいいお出かけなので、身なりもゆるい感じで。
支度も荷物も最低限にしておきます。

騙されたと思って、ちょっと行ってみてください。
家に帰る頃には、よどんでいた体内が驚くほどすっきりします。

***

今朝、まさに自分がそんな状態でした。

昨日はずっと家でだらだら過ごしていたので、疲れは取れているはず。
それなのに全然元気じゃないし、頭も体も動きが鈍い。
休みが足りないのかな?と思って横になってみましたが、ちっとも楽になれませんでした。

まずい、このままだと本当に動けなくなってしまうかも…と危機感を覚え、どうにかしようと考えました。

溜まっているタスクをがつがつこなす?
そのためのエネルギーが湧いてきません。

好きな街に繰り出して買い物?
やっぱりこれもちょっと気合いを入れないとできません。

趣味のお茶でも淹れてみる?
好きなことのはずなのにそれすら億劫です。

何も考えずに自堕落に過ごす?
これでは逆に悪化してしまいそうです。

そこで思いついたのが散歩でした。
やるべきことができないから、それから逃げる。
家で休んでいるのもつらいから、それから逃げる。
ささやかな現実逃避です。

というわけで、申し訳程度のメイクをして、しとしとと雨の降る中、傘と財布だけ持って家を出ました。
行き先は近くの線路の向こう側。
そういえばあの辺は歩いたことないなと思って、そこをうろついてみることにしました。

RPGのダンジョンマップみたいに、自分の中の地図を広げるような感覚で、30分ほどてくてくと歩き回ってみました。
特に面白いものがあるわけでもなく、見るべきものがあるわけでもなく、何を考えるわけでもない。
無為だけど無意味ではないという、不思議な心地よさがありました。

途中でお昼を食べて、帰り道。
住宅街の中をうろうろしながら、見覚えのある川を辿って、知っている路地に着いたときには思わず「おお~」と声が出てしまいました。
ここに繋がってるのか!という、まさにRPGのダンジョンで味わうあの感動です。笑

自宅の玄関をくぐり、気がつくと体内の毒が嘘のように消えていました。

そうして鼻歌まじりに淹れたお茶を飲みながら、この記事を書いています。
今後また同じような状態に陥ってしまったときのために、ここに書きとめておきました。
自分用メモではありますが(というかこのブログ自体がそんな感じですが)、同じような思いをしている方のお役に立てたなら幸いです。
がんばれないときは黙って待つ
「がんばれない自分が許せない」

私が、多分高校生ぐらいから長いこと嵌っていた、思考の悪い癖です。
いまだに抜け出しきっていない部分もありますが、最近少しずつ距離を置いて俯瞰できるようになってきたので、今日はこれについて書きたいと思います。

***

やることがたくさんあるのになかなか進まない。
ちっともがんばれない。
あれこれ工夫してみるけど、心と体が動かない。
寝たり、食べたり、ぼーっとしたり、ゲームしたり…。
気づいたら時間だけが過ぎている。

病気ではなく普通の状態で、何となくそんな感じ。
何年も何年も。

イベントごとがあると楽しい。
授業や仕事はちゃんとやる。
しかし、どうにも常に「がんばれないだめな感じ」が大気と同じように上から全身を押さえつけている。

うん、まあ、日常生活に支障はないけど。
別に問題はないけど。
でも、なんだかずっと重いような…。

そんな漠然とした感覚、皆さんも経験ないでしょうか。
そういうときはよく「がんばれない」などのワードで検索してぼんやり眺めていましたが、そうすると自分と同じような人がたくさん出てきました。
なので比較的多くの方が感じていることなのかなと思うのですが、いかがでしょうか。

***

「がんばれない」などのワードで検索してみると、「自分をありのまま受け入れる」とか、「必死になるようにわざと自分を追い詰める」とか、「期待値を低くする」とか、いろんなアドバイスが出てきます。
「甘えだ」とか、「いいからさっさと行動しろ」とか、体育会系のアドバイスも出てきます。
とにかく、なんだかいろいろたくさん出てきます。

そして大抵、ふむ、と思うようなアドバイスがあったとしても実行しません。
しないというか、できないというか。
おおそうかと共感して、ちょっと希望が見えた気がして、それで終わり。
当然、がんばれないだめな状態は変わりません。

そのたびに「がんばれない自分」を思い知ります。
そしてそんなだめな自分を責めたり、許せないと感じます。

① がんばれない自分をどうにかしようとする
② そのまま何もしない、あるいはできない、あるいはうまくいかない
③ がんばれないだめな自分を責める

そして①に戻る。
これをずーーーっと繰り返します。

***

ここで「②が無限ループの原因だ」と思われる方がいるかもしれません。
ちゃんと調べたことをきっちりやり通せばいいじゃないかと。
そうすれば何かしら変化が起きて、道が開けるじゃないかと。

確かにその通りです。
その通りですが、じゃあそれを実践できるかというと、できません。
なぜなら今このとき、自分は「がんばれない自分」だからです。
がんばれない自分をどうにかするために行動すること自体、がんばれない自分にはできないのです。
何とかやってみたとしてもほぼ100%うまくいきません。がんばれないだめな自分がやっているからです。
考えてみれば、当たり前です。

では何が無限ループの原因なのかというと、①です。
「がんばれない自分をどうにかしようとする」からこんな不毛なループに嵌るわけです。

するとよく聞く「自分をありのまま受け入れる」というアドバイスが正解のように思えます。
「がんばれない自分を許す」ということになります。

ところがこれも実践できません。
なぜならことの発端が「がんばれない自分が許せない」からです。
許せないものを許すことは容易ではありませんので、そのように変わるための努力や行動が必要になります。
しかしそれも、今の「がんばれない自分」にはうまくできません。
結局、先ほどと同じということになります。

なんとも厄介な現象です。

***

少し、違う視点から考えることにしてみます。

「がんばれない自分が許せない」というおおもとの気持ち。
逆に言うと、「がんばれる自分は許せる」ということになります。
どうやら根っこには「がんばれる自分」が望ましい状態である、という意識があるようです。
今の自分は望ましくない状態だから、早く望ましい状態に変わらなければ、という焦りが感じられます。

なぜ焦るのかというと、自分を許せないのはしんどいからです。
自分を責めたり、だめなやつだと思ったり、叱咤したり…そういうのが辛いからです。

「だめな自分」を他人に置き換えて想像してみるとわかりやすいです。
その人を責めて、お前はだめなやつだと言って、叱咤する。
そんなことをされる側は辛いに決まっています。

そういうしんどい状況から抜け出したくて、焦っているわけです。
そして下手にもがいた結果、かえって沈んでしまっているような状態です。

***

更に、また別の視点から考えてみます。

今は確かに「がんばれないだめな自分」だし、何年も何年もずっと感じている感覚だけれど、それって文字通り「ずっと」なのでしょうか。
何年も何年も、365日、24時間、そのまままったく変化がない…わけではなさそうです。
「お、ちょっと今日は調子がいいな」とか、「なんか今、妙に集中できるな」とか、「あ、気づいたらできてた」とか、そういうときもあります。
がんばれないとかだめだとかそんなことすらパーッと忘れて「うっひゃー楽しい超楽しい!」なんて、何かに夢中になっていることもあります。

つまり、「がんばれないだめな自分」ばかり意識しているけれど、「がんばれるしだめじゃない自分」も普通にいるようです。
そういうときはわざわざ悩まないので、意識が行きません。
意識が行かないので、褒められることもなく、当たり前のこととしてスルーされてしまいます。

事前に何かしたからそういう状態になれた、というものでもありません。
なぜか、いつの間にか、自然とそういう状態になっているのです。
余計に意識できません。

***

上記を踏まえて、最終的に私が落ち着いた解決方法は「黙って待つ」ことでした。
これは私自身が見つけた方法ではなく、お世話になっている精神科の先生が仰っていたことです。
まったくその通りだったのでこの方法に落ち着いた、という形です。

調子が悪い、動けない、がんばれない…。
そんなときは、動かない。
焦って行動したくなるけれど、ぐっと我慢。
黙って時が過ぎるのを待つ。
ぼーっとしてもいいし、だらだらネットしてもいいし、寝ちゃうのもいい。

無理に許そうとしたり、肯定しようと思ったりする必要はありません。
「あ、今だめだ、動くのやめよう」
これだけ。

「がんばれないだめな自分」の時期を黙ってやり過ごして「がんばれるしだめじゃない自分」の時期が来るのを待つわけです。
そうしてふと「あ、今ちょっといい感じ」と気づいたら、ためらわずに波に乗る。
前の時期にエネルギーを温存しておいた分、サクサク動くことができていい感じです。

心身の調子の自然な波に、素直に合わせる。
最終的に行き着いたのは、そんなシンプルなところでした。

***

この結論に納得がいかない人がいるかもしれません。
もちろんそういうこともあるだろうと思います。
これは私が、何年も何年もぼんやり悩んで、ぼんやり苦しんで、ぼんやり試行錯誤した末に落ち着いた、私のための結論なので、別の人となれば事情も違ってくるでしょう。

また、もしかしたらある程度時間をかけないと落ち着かないものなのかもしれない、とも思っています。
読んでハイ納得!解決!という単純な話でないことは、不毛ループのくだりでご説明した通りです。
いつかはわからないけど、いつか納得できる。多分。
そんな話なのかもしれません。(焦るのも無理ないですね…)

それでももしこの記事が、誰かにとって問題解決の一助になれたなら、とても嬉しく思います。

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プロフィール
HN:
まなか
自己紹介:
創作や紅茶が趣味の元プログラマー。
新卒入社した会社を2年と1ヶ月で辞め、次のステップに向けて充電中。
マイペースに生きています。
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BACKGROUND / tudu*uzu
TEMPLATE / Lenny
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